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野茂英雄の子供の頃

 日本人メジャーリーガーの草分け的存在である野茂英雄は大阪の出身であり、子供の頃は、阪神タイガースで活躍することを夢見ていたようです。

 小学校の卒業文集には「将来、甲子園に出場して阪神タイガースに入団したい。王貞治選手を抜くぐらいのホームランを打って・・・(略)」と書いています。

 そんな野茂が野球をはじめたきっかけは、「肥満防止と親子のスキンシップ」のため。
時期は、幼稚園年長組頃のことです。

 小さい頃から、野茂は本当によく食べる子供でした。
 母佳代子さんは、食欲旺盛でどんどん体格がよくなっていく息子をみて、肥満になってしまうのではないかと心配していました。

 このことが、野球の道へとつながります。
 母から相談を受けた父静雄さんが、息子にグローブをプレゼントし、一緒にキャッチボールをすることで身体を動かす機会を作ったのです。

 その後、小学校2年生の時に、TVで巨人軍の江川の豪速球をみたことで本格的に野球に魅せられていきます。

 そして、「池島ファイヤース」という地元の少年野球チームへ入団し、めきめきと頭角を現し、すぐにエースになります。中学でもエースの座は野茂のものでした。

 しかし、小学校の卒業文集に書いた「将来、甲子園に出場」という夢が叶うことはありませんでした。
 そして、「阪神タイガースに入団」という夢も叶ってはいませんが、野茂はそれ以上に大きな夢を実現し、また日本人に夢を与えてくれる選手になっていくのです。

【wikipedia による野茂英雄 は以下のとおりです】

野茂英雄


野茂 英雄

タンパベイ・デビルレイズ時代(2005年)

野茂 英雄(のも ひでお、1968年8月31日 - )は、日本大阪府大阪市港区出身の元プロ野球選手(投手)。

1995年にロサンゼルス・ドジャースに移籍し、日本人メジャーリーガーのパイオニアとして活躍した。大きく振りかぶってから背中を打者に向ける独特の投法は「トルネード投法」と呼ばれ、ノビのあるストレートと2種類のフォークボールが大きな武器である。

現役時代は奪三振の多さから「ドクターK」の異名をとった。引退前になると、カーブ、スライダー、ツーシームなども投げ、技巧派となった。

基本情報
国籍 日本
出身地 大阪府大阪市港区
生年月日 1968年8月31日(41歳)
身長
体重 188cm
104kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 投手
プロ入り 1989年 ドラフト1位
初出場 NPB / 1990年4月10日
MLB / 1995年5月2日
最終出場 NPB / 1994年
MLB / 2008年4月18日
経歴(括弧内は在籍年)
大阪府立成城工業高等学校
新日本製鐵堺
近鉄バファローズ (1990 - 1994)
ロサンゼルス・ドジャース (1995 - 1998)
ニューヨーク・メッツ (1998)
ミルウォーキー・ブルワーズ (1999)
デトロイト・タイガース (2000)
ボストン・レッドソックス (2001)
ロサンゼルス・ドジャース (2002 - 2004)
タンパベイ・デビルレイズ (2005)
カンザスシティ・ロイヤルズ (2008)
この表について[表示]
オリンピック
男子 野球
銀 1988 野球


経歴

所属

大阪府立成城工業高等学校 - 新日本製鐵堺 - 近鉄バファローズ - ロサンゼルス・ドジャース - ニューヨーク・メッツ - シカゴ・カブス(マイナー契約) - ミルウォーキー・ブルワーズ - デトロイト・タイガース - ボストン・レッドソックス - ロサンゼルス・ドジャース - タンパベイ・デビルレイズ - ニューヨーク・ヤンキース(マイナー契約) - シカゴ・ホワイトソックス(マイナー契約) - カンザスシティ・ロイヤルズ

プロ入り以前

小・中学校時代の野茂は全くの無名選手であった。この頃すでに「体を捻って投げると直球の威力が増す」と考え、後のトルネード投法の原型となる投法で投げていた。(野茂がプロ入り後、トルネード投法で脚光を浴びた後、高校時代の監督は高校時代の野茂の投法を振り返り、トルネードほど捻らないがその片鱗を感じたという意味でつむじ風投法と名付けた)名門野球部のセレクションをいくつか受けるも不合格に終わり、高校野球全国大会とは縁の無い公立高校に進む(当時、セレクションを受けた野球部の監督は『そんな体を捻る投球フォームじゃ、絶対大成しない』と言って野茂に目をかけなかった)。

成城工高時代には2年生からエースとなり、選手権大会大阪府予選では2年生の時に完全試合(2回戦、対生野高)、3年生の時はベスト16(5回戦)進出等の成績を残す。

高校卒業時には既に近鉄から誘いがあったが、ノンプロ・新日本製鐵堺(新日鐵堺)への入団を選ぶ(なお、入団先は新日本製鐵傘下のチームであったが、野茂の勤務先は、子会社の新日鐵化学だった)。新日鐵化学での当時の給料は額面で11万9000円、手取りでは9万円ほど。新日鐵堺での1年目にはフォークボールを習得している(スライダーを習得できなかったため)。2年目はエースとしてチームを都市対抗に導き、日本代表にも選ばれた。1988年のソウルオリンピックでは銀メダル獲得に貢献している。名実共にアマNo.1投手となった野茂の進路が注目されたが、1989年のドラフト会議前、野茂はどの球団から指名されても入団することを明言する。

日本プロ野球時代

1989年のドラフト会議では史上最多の8球団(阪神、ロッテ、ヤクルト、大洋、ダイエー、日本ハム、オリックス、近鉄)から1位指名を受け、抽選で近鉄が交渉権を獲得した。推定契約金は史上初の1億円台(1億2000万円)、推定年俸は1000万円であった。契約時、投球フォームを変更しないという条項が付け加えられた。

1990年4月10日、対西武戦でプロ初登板(藤井寺球場)。その後先発するも白星の付かない試合が続いたが、4月29日、対オリックス戦(西宮)に先発し初勝利した(プロ4試合目)。完投で17奪三振の1試合奪三振数日本タイ記録(当時)を樹立し、「ドクターK伝説」の幕開けを飾るにふさわしい勝利を飾った。

結局この年、新人ながら最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率と投手タイトル四冠を独占する活躍を見せた。またベストナイン、新人王、沢村賞、そしてMVPにも輝いた。パ・リーグの投手が沢村賞の選考対象となったのは1989年からで、野茂はパ・リーグからの受賞第1号となった。現在までに権藤博、堀内恒夫、上原浩治が新人王と沢村賞、木田勇が新人王とMVPのダブル受賞を果たしているが、新人王・沢村賞・MVPをトリプル受賞したのは野茂のみである(但し木田は沢村賞の受賞対象者ではなかった)。

1990年~1993年にかけ、最多勝利と最多奪三振のタイトルを4年連続で獲得する。新人年から4年連続最多奪三振はもちろん、4年連続最多勝利のタイトルを獲得した投手は野茂のみである。

1990年には5試合連続2ケタ奪三振を記録し、江夏豊の持つ4試合連続2ケタ奪三振を19年ぶりに塗り替えた。翌年には自身の記録を塗り替える6試合連続2ケタ奪三振を記録。(1993年にも5試合連続2ケタ奪三振を記録)

プロ5年目の1994年、西武との開幕戦で8回までノーヒットノーランに抑えた(4回までに11奪三振を記録)が敗戦。この年は右肩痛のため年間通じて目立った活躍が出来なかった。またこの年の西武戦では個人1試合16与四球の日本記録を作っている(試合は189球投げて3失点完投勝利)。

メジャーリーグ時代

1995年、ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結ぶ。年俸は近鉄時代の1億4000万円からわずか980万円になった。5月2日にジャイアンツ戦で先発投手としてキャンドルスティック・パークのマウンドに立ち、村上雅則以来31年ぶり、2人目の日本人メジャーリーガーとなった。6月2日にメッツ戦でメジャー初勝利をあげた。オールスターでは、先発で出場した。13勝6敗、236奪三振の成績で新人王、奪三振王のタイトルを獲得する。日米両国で新人王を受賞したのは現在まで野茂ただ1人である。

1996年9月17日、ロッキーズ戦でノーヒットノーランを達成した。クアーズ・フィールドでの達成者は野茂1人である。高地で空気が薄いためスタミナの消耗が早く、またボールが飛びやすいため(現在はボールを湿らせることで飛ばないようにしているが、野茂の快挙の際、雨でボールが湿っていたことにヒントを得ているという)難易度はかなり高い記録であり「不可能を可能にしたノーヒッター」といわれこの球場ではノーヒッターは今後出ないだろうと言われている。1998年4月28日に、日本人メジャー1号本塁打を記録。しかし、シーズン途中でニューヨーク・メッツにトレードされた。1999年、開幕直前にメッツから解雇され、シカゴ・カブスとマイナー契約。さらに、カブスからミルウォーキー・ブルワーズにトレード。2000年、ブルワーズからデトロイト・タイガースにトレード。日本人初の開幕投手になり勝利した。

2001年、タイガースからボストン・レッドソックスにトレード。4月4日、オリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズでの対ボルチモア・オリオールズ戦で1996年に次ぐ2度目のノーヒットノーランを達成。両リーグでのノーヒットノーランはノーラン・ライアン以来メジャー史上4人目。20世紀、21世紀と世紀を跨いで記録したのはメジャーの歴史で野茂とランディ・ジョンソンだけ(ランディ・ジョンソンの場合は完全試合)である。2002年、レッドソックスからロサンゼルス・ドジャースに復帰した。 この年はチームメイトであった石井一久と与四球数において、メジャー全体で1-2位を記録した(1位は石井106個、2位は野茂103個)。2004年、11月初めにフリーエージェントを申請している。

2005年はタンパベイ・デビルレイズとマイナー契約。6月15日のブルワーズ戦で日米通算200勝を達成するが、7月16日に戦力外通告を受け、10日後に解雇。7月27日、ニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約を結んだ。

2006年3月3日にシカゴ・ホワイトソックスとのマイナー契約。4月17日、3Aシャーロット・ナイツの先発として初登板したが、右ひじの炎症を理由として故障者リストに登録される。6月8日に契約解除される。同月下旬には右ひじを手術した。

2007年、ドミニカ共和国でのウインターリーグ参加を検討したが、回復が思わしくないことから断念。リハビリに専念するため、どのチームにも所属していない状態が続いた。その後、ベネズエラのカラカス・ライオンズに入団。ベネズエラでのウインターリーグへの参加が認められる。10月20日のグアイラ戦で、1年半ぶりの登板を果たす。

2008年1月4日にカンザスシティ・ロイヤルズとマイナー契約[1]。手術した右肘への負担を軽減するため、トルネードの大きな特徴であったワインドアップ・モーションをやめ、セットポジションに投法を統一する。オープン戦で防御率は思わしくなかったものの、16イニングを投げ16奪三振、四死球は4つに留めるなど比較的安定して三振が取れていると評価され、4月5日にメジャー昇格[2]の後、同月10日、2005年7月15日以来1000日ぶりにメジャーで登板した[3]。しかしその後結果は残せず、4月20日にロイヤルズから戦力外通告を受けた[4]。

2008年5月11日、東北楽天ゴールデンイーグルスが獲得への交渉意思を示すも、不調に終わる。

2008年7月17日、共同通信のインタビューに対し、「リタイアすることにした。プロ野球選手としてお客さんに見せるパフォーマンスは出せないと思うし、同じように思っている球団も多いと思う。自分の中ではまだまだやりたい気持ちが強いが、自分の気持ちだけで中途半端にしていても周りに迷惑をかけるだけだと思った。」とコメントし現役引退を表明した。メジャーリーグ生活の大半を過ごしたドジャースから勝ち星を挙げれば、「メジャー全30球団から勝利」を達成していたが、とうとう達成はされなかった。
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
最終更新 2009年10月14日

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